11.4(火)晴れ 思考まみれの坐禅

週末、坐禅会に参加した。

前回の初参加からの4ヶ月、ほぼ毎日座ってきた。
時々忘れたり、おろそかになった日もあるので、ほぼだ。
前回は友人と2人で参加したが、友人はすぐに坐禅からは離れたようだった。
友人は座ることより身体を動かすことが好きで、ほぼ毎日ジムに通い、1時間ほど歩いているそうだが、最近は走れるようになったと言っていた。
友人もほぼだ、ほぼがちょうどいい。
それぞれに、向いていることを続けるのがいいと思う。
ちなみに坐禅に関しては1分でも、1呼吸でも毎日やるのが良いと言われている。

最近、なかなか集中できず、川のせせらぎやら虫の声やら波の音やら、BGMを流してみたり、禅のユーチューブを見たり、少し気分を変えてみてもなかなか落ち着いて座ることができなくなていたので、正してもらおうと、坐禅会に参加することにしたのだ。


家では15分程度だが、坐禅会では1時間近く座る。
1時間、ただただ座っているだけなのだが、不思議なことに時間はあっという間に過ぎ、もう少し座っていたいと思うくらいだ。
だけどやっぱり次から次へと思考が出てきて、ついついその思考を掴みに行ってしまう。
気づいたら呼吸を数えることを忘れ、どっぷりと考え事をしていたりする。
思考に気づいたらまた呼吸に戻る。
その繰り返しなのだが、どうも思考が多すぎる。
浮かんだ思考を受け取らず流しているそばから次の思考が降ってくる。
イメージではテトリスだ。
1つのブロックがまだ着地しないうちから次のブロックが画面の隅にスタンバイしている。
やっとのことで1つの思考を見送ろうとしているのに、もう次の思考が頭の奥の方でチラチラしているのだ。
『おい。次はこんなこと考えるぞ。どうだ、耐えられるのか?流せるのか〜??』と、自分を試すように次々を現れ、ちっとも呼吸に集中させてくれない。
まるで悪意ある誰かの仕業のように言っているが、全て私の中から発生しているわけなんだが。
とうとう、自分で自分に『おい!今頑張ってるところなんやから、試すようなことせんと応援しようよ!』などと、こっちの自分があっちの自分を説得したりする。
『今そんなこと考える必要ないじゃないか!時間ならたっぷりある、後で考えたらいいじゃないか!』
『そうだそうだ。そもそも、今それ考える必要ある?大学の学費なんか、今考えたってどうにもならん。なんならいつ考えたてどうにもならんぞ!』
更には、あえていかがわしいことを考えたりもする。
子供の頃、お盆なんかにお坊さんがお参りに来てくれると、最初はご先祖様のことを考えるのだが、早々に飽きてきて、わざと悪いことを考えたりするようになる。
お坊さんの頭に蚊が止まったらどうしよう、誰かパチっと叩いたりしちゃって?とか、お供え物、和菓子と缶詰ばっかりだな。小さい子供のいる家なんだからさ、ケーキとかチョコレートとかもう少し気の利いたものくれないものかなぁ?とか。
で、私が今そんなことを考えていることを、ご先祖様やお坊さんにはバレてるのかな?罰当たるかな?と、そのスリルを味わっていた。
バレてるかも、と思うと、ますます考えていはいけないことを考えてしまう。
私は小学生の頃からちっとも成長していない。
わざわざこの瞬間に、わざわざいかがわしいことを考える43歳になったのだ。
そして、43歳になった今も『万が一、本当に心が読まれていたら恥ずかしいから、そういうの考えるのホンマにやめて!!』などと、自分で自分を戒めている。
その全てが思考であることに気づくのに数分かかる。
向いていないのかも知れない。

1時間の坐禅が終わり、思考が止まらないことを相談した。
みんなそんなものだよ、修行を積んだお坊さんでも難しい。できるだけ早く思考に気づいて呼吸に戻る。その訓練だよ。
と優しくアドバイスを頂いた。
で、今日はどんな思考が浮かんだの?と聞かれたが、いかがわしいことです。とは言えなかった。

これからも1呼吸でも集中できるように座っていきたい。



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