戦後80年。
80年だろが79年だろうが94年だろうが、歳月にかかわらず、終戦日にかかわらず、忘れてはいけない、いつだってスッと自分の隣にあるべきことなんだろうけれど。
実際には、戦争を忘れて生活をしている。
ウクライナとかロシアとか、ガザとかイスラムとか、今も戦争は常にあるわけで、ニュースを見るから他国の争いに意識は向くが、第二次世界大戦、太平洋戦争のことを思っているわけではなくて。
子供の頃は夏になれば平和学習があったけれど、大人になるとなかなか戦争を学び、命だとか平和だとか歴史を思う時間がない。
そんなことではいけない気がするので、私もこの戦後80年にあたる今年はしっかり戦争を知ろうと思っている。
というのも、先日、侍タイムスリッパーと永遠の0を2本続けて観たことで、過去を精一杯生きてくれた人がいたから今があるということを改めて・・・いや、初めて真摯に思ったからだ。
来週の金曜ロードショーは火垂るの墓だ。
子供たちと一緒に見ようと言っている。
見れるかな?
子供の頃、何度か見たことがある。
テレビでやっていたのだけれど、姉たちが『今日は火垂るの墓やで』と、好奇心で言う。
学校で話題になるのだ。
悲惨で可愛そうな戦争の映画。
きっと怖くて可哀想で辛い。とわかっていても、子供心に興味本位だけで見たいと思うのだ。
今、見たいと思う気持ちとは明らかに違う。
肝試しにような、怖いもの見たさのような感覚。
一人では見れない、でも見たい。
母を誘うと、母は嫌だという。可哀想で見れないと。
それから十数年経って、大人になった。
子供が生まれた頃、火垂るの墓は子供を持ってからは観ることができないという噂を聞いた。
テレビのクイズ番組で火垂るの墓のワンシーンが流れただけで、泣いてしまった。
節子を、清太さんを我が子に重ねてしまい、とても見られない。
母もそういう気持ちだったのだろうと思う。
あれからまた月日が経って、今年は見てみようと思う。
観るのが怖い。
気持ちが持っていかれるんだろうと思うけれど、でも、今年は見ようと思う。
気持ちを持っていかれる日も、大事な一日になると思うから。
先日、近所の図書館で、高校生が戦争体験者から話を聞き、その情景を絵にしものの展示が行われていた。
10枚ほどの展示だったけれど、すべての絵をみて、すべての解説を読んだ。
見終えた頃には自分の腕に自分の爪痕が着くほど腕を握りしめていた。
身体は固くなり、こわばっていた。
広島の原爆投下直後、川を流れてくるたくさんの遺体。
絵を書いた高校生が、『自分ではたくさんの遺体を書いたつもりだったが、体験者の〇〇さんから、もっとたくさんと言われた。』と、コメントがあった。
想像できな、川の中にこんなにたくさんの遺体が流れていることなんて、想像することすらできない。
想像することすらできないことが、現実に起き、それをまだ幼い子供が目にしていたのだ。
船着き場に流れてきた、男とも女とも、大人とも子供ともわからない遺体を見て、ここに流れ着かれては困ると、木の棒で沖に向かって押した。
今なら、引き上げて葬ってあげようと思うが、その時は、ただここに溜まられては困ると思った。
戦争というのは、心も殺す。
という被爆者の話もあった。
こんな時だけ。とか、年に1回だけ。とか。
随分浅いと思うけれど、平和学習の機会がなくなった大人になってから、私はじっくり戦争について思うことなかったので、これまでのことを反省しながら、ちゃんと戦争のことを思っていきたいと思う。
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